ここ最近、ずっとおいしいコーヒーが飲みたいと思って、コーヒーミルを調べたりしている。
いいなあ。煎った豆から自分でゴリゴリして淹れるコーヒーを飲めるの。しかし、カフェイン全般は自律神経にあまりよくないようなので控えなければならない。
現状はカルディに売られているデカフェコーヒーがおいしいのでそれを飲み続けている。
カフェインなくたって美味しいのだし、まあいいか。
全然関係ないのだが、はてな匿名ダイアリーを眺めていてきになった記事があるので所感を述べたい。
【目次】
暴力的な躾に賛成、という意見
はてな匿名ダイアリーでこのような記事を読んだ。
読んでいない人のために要約すると
・暴力も躾の一部ではないかという意見
・筆者は強い躾を受けることで社会的にも褒められるマナーが身についた
・自分の子供にも同じような躾をするだろう
というものだ。
たしかに昨今、虐待のニュースが表面化してきているように思う。
母数が増えた、というよりは周囲の人間が"虐待"というものを理解するようになり「あれは虐待なのではないか?」と疑うことが増えたのだろう。
また、最近では虐待の様子をいいね欲しさにSNSへ投稿するなどというすごい輩もいるらしいから、それはニュースにしやすいかと思う。
しかし、この記事を読んだ最初の感想は「そりゃ、原因が子供にあれば、暴力も躾に感じられるよな」というものだった。
暴力を躾と判断するには
例えば、自分が暴力を受ける側だとする。
自分が何か道徳的にしてはいけないことをしたとして、その原因で父親が殴ってきたとする。
これは躾であると判断できる。何故か。自分が当事者で、自分の中で暴力を正当化できるからだ。
では、視線を他人に変更してみよう。
近所の子供が、父親に殴られていたとする。
何かわめいているが、内容は聞き取れず、またその家からは頻繁に悲鳴と怒声が聞こえたらどうだろう。
これでは躾であるか判断はできない。何故か。自分が当事者ではなく、その暴力を正当化できないからである。
要するに暴力であるか、躾であるか、の判断は第三者からはよくわからず、かといって躾か暴力かわからないものを看過することはできない⇒虐待と判断して児童相談所となるわけだ。
筆者の文章からもこれが読み取れる。
「厳しく叱っても、わかる歳になったら理由は自分で気付ける」、本当にその通りだったから。だから私は自分の子供時代を不幸だったなんて全然思わないし、父の躾を虐待だと言われたら真剣に反論すると思う。
理由が正当化できれば暴力も躾になる、という理論の父親に賛同しているのだ。
暴力の原因は外部から容易に判断できるものではない
ではどうすれば第三者から暴力であるか、躾であるのか判断できるのだろうか。
無論、無理だ。
弱者が虐げられているのをみて、親に「すみません、これは虐待かと思いますが、何故こどもに暴力を振るわれているのですか?」と聞けばよいのだろうか。
理由があれば「●●だから」と答えるだろうが、理由がなくてもヘラヘラと笑って適当な理由をでっちあげるに決まっている。
だいたい、見て虐待なのか躾なのか一発で判断ができれば虐待で子供が死ぬ、などという悲しいニュースを見ることはなくなるだろう。
弱者を虐げる、という意味では虐待もいじめも同様であるが、いじめの加害者が「俺たち、いじめしてます!」などと言うだろうか。
自分に非があると判断しているものは保身に走るし、自分に非がないと判断している場合は正当な理由を提示するはずなのだ。
ゆえに、第三者は弱者が虐げられていれば「虐待かもしれない!」と"かもしれない運転"をするしかないのである。疑わしきは罰せず、ではなく疑わしくてもとりあえず「虐待!」と叫ばなければならない状況にあるのだ。
という釣りでした
……と、ここまで読んで追記があるのに気が付いた。
親を怖いと思っている気持ちに賛同してもらうために、あえて逆の意見を述べたという追記である。
まあ、気持ちはわからないでもない。
しかし、こうトラウマを持っている増田さんには、積極的にカウンセリングを受けてもらい、是非、今を生きてほしいと思う。
弱者をいじめていいことなど、世の中に一つもないのだから。